応仁の乱を契機とした加賀一向一揆の台頭
戦国武将の領土変遷史⑮
一向一揆の台頭により大名との対決が激化
この時代、象徴的な出来事が「百姓の持ちたる国」と評されるような一向一揆(いっこういっき)の台頭である。加賀一向一揆が勝ち取ったとされる加賀国の支配は一揆内での主導権争いや守護勢力との抗争など複雑な様相を呈する。
能登国では畠山氏と重臣温井氏らとの抗争や、家臣同士の争いに越後守護代長尾氏が絡み、越中国も同様に、守護畠山氏の家臣である神保氏、椎名氏らの争いに長尾氏が介入し、錯綜した状況に陥る。
越前国では一乗谷(いちじょうだに)を本拠に、朝倉氏の支配が強化されたが、隣国加賀国の一揆との戦いに忙殺(ぼうさつ)される。小国である若狭国では、武田氏の支配が弱体化し、家臣同士の主導権争いが熾烈化する。朝倉義景が軍事介入したものの奏功せず、混迷を深める。
永禄8年(1565)5月、将軍足利義輝(よしてる)が三好(みよし)勢に弑逆(しいぎゃく)される大事件が勃発した。畿内はもとより、北陸にも大きな影響を与え、全国規模で戦国のうねりが拡大していく。
義輝の実弟覚慶(かくけい/義昭/よしあき)は、興福寺に幽閉されたが、脱出に成功し、曲折を経て越前の朝倉義景(よしかげ)を頼る。織田信長(おだのぶなが)や上杉謙信(うえすぎけんしん)をはじめとした大小名に支援を求め、義昭の将軍就任を軸に全国的な動きに拡大していく。
義昭は、優柔不断な義景に見切りをつけて信長を頼る。信長は上洛軍を編成して電光石火で上洛し、義昭を将軍に
就けることに成功。その後、朝倉攻めに出陣したが、浅井氏の寝返りで撤退。「元亀争乱」の始まりである。足掛け4年に及ぶ抗争の末、天正元年(1573)8月、義景を自害に追い込む。
若狭国は丹羽長秀(にわながひで)を起用し、越前支配は朝倉旧臣に任せたが、旧臣同士の抗争に一揆勢も加わり、越前国は一揆勢に蹂躙(じゅうりん)され「一揆持ち」の国となった。しかし、天正3年8月、長篠(ながしの)の戦いで大勝した信長が懸案の越前征伐に出陣し、一向一揆を殲滅し、加賀国にまで侵攻した。越前支配は重臣の柴田勝家(しばたかついえ)に委ねた。
一方、関東管領に就任して関東方面に軸足を置いていた謙信だったが、越中方面へも本格的に侵攻を開始する。
元亀3年(1572)6月には、加賀・越中の一揆退散などを祈念したが、その文言を見ると、すでに越中を分国と認識していたようである。家臣の河田長親(かわだながちか)らに侵攻させたが、はかばかしい成果を得ることができず、8月には自ら出陣。一揆勢との熾し烈れつな戦いを制し、滝山城を攻略したが、武田信玄の軍事行動に掣肘(せいちゅう)され、不徹底な制圧となった。